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【ねっとわぁく Vol.67+α 】染谷絹代さん(島田市長)夫妻へのインタビュー記事を全文掲載

2016年10月25日

【Web版】染谷臣道・絹代夫妻と「女子力」「男子力」「人間力」について考える
2016年7月23日(土)静岡県男女共同参画センターあざれあにて
「女子力」「男子力」に注目が集まる日本社会の中で、性にとらわれず、個の特性を重視した「人間力」を発揮する生き方が求められています。
静岡大学名誉教授・染谷臣道(そめやよしみち)さん(74歳)と、島田市長・染谷絹代(きぬよ)さん(62歳)に聞きました。
紙幅の都合で本誌には掲載できなかった部分を含む、【Web版ノーカットバージョン】をお届けします!
聞き手…『ねっとわぁく』編集員藁科可奈、齋藤典子

染谷夫妻インタビュー 「男女共同参画」≠“gender equality”?!
臣 あざれあの入り口の『男女共同参画』の石碑に“gender equality”って英訳が添えてあるけど、誤訳じゃない?(笑)
斉  日本では『男女共同参画』って言う方が当たりが良いから、そう訳す風潮にありますよね。
臣 まあ『平等』って、以前から言われているから、より強く『参画』って出したんだろうけど…。そうなると英語の方を変えなきゃいけないよ。例えば“participiton”とか。
絹 あのね、『男女共同参画』という言葉を使った途端に、ブルーシートを張ったように水が通らなくなるんですよ。本質を捉えていかに伝えていこうかという風潮の中で、『男女共同参画』という言葉も“gender”という言葉も今はもうほとんど使いません。
臣 じゃあ何を使うの?
絹 何もそんな言葉は必要ないんです。
斉 だからそこらへんが、学者の世界と違うんです。先生(笑)
藁 研究者は言語化が必須ですからね…(笑)

12歳差で学生結婚し、北海道へ転居
藁 「男女共同参画」の英訳談義から始まりましたが、本日はお二人に女子力、男子力から日本社会のジェンダー不平等への気づきについてお話しを伺いたいと思います。
絹代さんは、学生結婚をされたのですね。
絹 当時夫は、私が学ぶ大学で講師をしていたのですが、帯広畜産大学へ転勤が決まり、結婚して私も一緒に行くことになりました。当初は夫も「一年ぐらい学業を休み、また東京に戻ったら復学したらいいよ」と。でも実際は北海道の次はインドネシア赴任になり、結局東京には戻れなかった(笑)。ですからその後、通信教育を受けて大学を出ました。
藁 では、当時はまさに『あなたについて行きます!』という心境だったのですか?
絹 …若かったんですよ(笑)。
藁 臣道先生のハートを絹代さんは見事射止めたのですね(笑)。
臣 当時、約200人もの学生たちがいる中から、彼女を選んだんです(笑)。
藁 当時から輝いておられましたか?(笑)
臣 印象深いですよ。この人は誰に対してもじーっと目を見る。この眼力がすごいんですよ。
絹 自分自身も思ってもみなかった展開でした。私達つき合って一か月で結婚したんですよ。
藁 かなりドラマチックですね(笑)。

染谷夫妻

乳飲み子を抱えてインドネシアへ赴任
藁 三人のお子さんはどのタイミングで授かったのですか?
絹 帯広で長女を産んでまだ一歳になるかならないかの時に一回目のインドネシア赴任。帰国して二人目を産んで二回目の赴任。帰ってきて三人目を産んだ後で三回目の赴任でした。
臣 インドネシアは、イスラム教徒が国民の9割を占める国で、多くのことが男女別々です。僕は文化人類学者だけれど、男であるがゆえに、未婚の女性にうかつに話しかけたら周囲からあらぬ噂をたてられ、相手の女性が不利な立場に陥ってしまう。でも、彼女がインドネシア語をだんだんマスターして、積極的に現地の女性と交流しては私に内容を教えてくれたんですよ。彼女のサポートがなかったら、僕はインドネシアの女性に関して知る術はなかった。
藁 異国の地で子育てしながら、お連れ合いの仕事の助手まで務めたのですね。そもそも、乳児を抱えて一緒にインドネシアに赴任することに、迷いはなかったですか?
絹 当時の自分の価値観では、家族はいつも一緒にいるべきだと思っていたので、ついて行っただけです。でも、家族の形態やライフステージに合った暮らし方は、いつも同じではないですよ。
藁 当時は、現地でどんな生活をしていましたか?
絹 温かいお湯のお風呂に入ることは全くなかったし、トイレットペーパーももちろんなかった。『向こうの暮らし』をしていました。
藁 その生活に赤ちゃんがいるんですよね?
絹 そうです。だからよく皮膚病に罹ったり、発熱したり下痢になりました。それに日本から持って行った子どもの哺乳瓶や衣料品が、どんどん盗まれてなくなっていったり。
藁  現地で臣道先生は、子育てに積極的に関わりましたか?
臣 当時のインドネシアと日本の価値観は似ていて、男性も女性もそれぞれやるべきことが決まっていた。そのような社会にいると、まさか『育メン』なんて概念は思いもつかないですよ。まあ、現代でも僕はたぶんやんないと思うけど(笑)。
藁 つまり、夫婦それぞれの役割をがんばろうねという感覚だったわけですね(笑)。
臣 それが当たり前の時代でした。そのようにして帯広畜産大学の後、九州工業大学、静岡大学、国際基督教大学と、定年までに4つの大学に勤めました。
子育て期の鮮烈な思い出
藁 乳飲み子を抱えながら海外赴任に同行したという経験が、絹代さんのその後の人生に強く影響したのではないですか?
絹 今でも忘れられない気持がいくつかあります。一つは、北海道で初産を終えて退院後帰宅した時に、本当にミルクをあげていれば赤ちゃんは育つんだろうかと、すごく不安だった気持ち。それからインドネシアから帰国した時に、日本であれ海外であれどんな場所でも暮らせるという自信と、日本ならば落ちている物を拾って食べても、賞味期限が切れた食べ物でも、命を落とすことはないというホッとした気持ちです。
思い通りにならないことや、考えてもみないことが起こる毎日だったから、タフになり想定外の事にも動じなくなったと思います。
藁 絹代さんの原点を垣間見たような気がしてきました(笑)。臣道先生との運命的な出会いから新天地で子どもを抱える中で、成長を余儀なくされたのですね。
絹 インドネシア赴任中に娘が体調を崩した時、高熱と発疹の症状から(死亡率の高い)デング熱の疑いがあったのに、病院ですぐ検査ができなくて…一晩中娘を抱いて病院の廊下をうろうろしながら、ここで子どもを亡くしたらどうしようと思いました。親は自ら望んで海外赴任したのだからいいけれども、子どもは親に連れられてきただけですから…。
齋 そういう時、臣道先生は相談相手になったり、励ましたりしたのですか?
臣 ・・・・・・寝てたんじゃないかな…?(笑)。母親が子を思う気持ちと、父親のそれは違うんだろうね。僕は楽観的で、大丈夫だろうと思っていたんだ。うちの子どもたちは三人とも現地でデング熱や腸チフス、パラチフスといった重い病気にかかってきたけど、インドネシアではそんなことは日常茶飯事で、日本みたいに大騒ぎしないんだよ。
藁 そうなんですか。日本ではもう大騒ぎですよね。
臣 うん。でもインドネシアでは、2~3日入院すれば、もういいよという程度(笑)。
絹 でもそれでは完治しないから再発するんですよ。そして帰国しようと思っても、日本では法定伝染病だから入国の時から隔離されてしまいます。だから帰国することも出来なくて、ずっと現地で付き添って入院していました。
齋 言うなれば人生の『修羅場』を越えてこられたのですね。
染谷ご夫妻1
ある日突然、妻が市長になる
臣 4年前の夏、ある日突然彼女が「私、市長になる」って言ったんです。でも地縁のつながりが強い島田市において、我々は所詮よそ者。知名度もないし、旦那衆の政治を続けてきた地域で、どうせ無理だからやめた方が良いと僕は反対した。彼女は素直に「はい」って応じたはずなんだけどね…。ところが蓋を開けてみたらもう着々と手を打ってあって、事務所を構え、そこに朝早くからいろんな方が訪れるようになった。でも僕は初対面の人の応対は苦手なんだよ(笑)。だから毎日苦痛だった(笑)。
絹 私も、もう二度とやらせたくないと思いましたよ(笑)。事務所に出てと頼んだわけではないですけど、出てくれたことには感謝しています。自分としては、夢に挑戦したいと思って何年もかけて着々と準備してきたことだったのです。
齋 市長という行政の長になろうと、いつごろから思いたったのですか?
絹 10年間島田市の教育委員をやって、そのうち半分くらい教育委員長をやる中で、行政を知ったと同時に自分ならこう判断するのに…と思うことが多々ありました。ある日、過去の市長選立候補者のリーフレットやポスターなどの資料をずっと大事に保管していた自分に気づき、やはり私は市長を目指したいという熱い思いがこみあげました。
臣  彼女が、元々は学校の先生になりたかったことは知っていたけど、市長という行政の職にそれだけ強い関心があったとは、うかつにも知らなかった。
藁 絹代さんは専業主婦を続けながら、少しずつボランティアサークル活動の幅を広げたわけですが、妻が家事育児以外に時間を割くことに、臣道先生は反対しなかったのですね。
臣 もちろん。むしろ、ぜひやった方が良いと思っていた。活動の積み重ねの中で、島田をなんとかしたいという彼女の気持ちがどんどん強まって、このままでは島田は財政破たんしてしまうという危機感を持った。もし誰か立つ人がいたら応援したいけれど、誰も出ようとしない。それで、誰も手を上げないんだったらと、一念発起してね。
絹 そんな流れだったかなあ…?(笑)
臣 選対事務所を構えてからの立候補準備期間中は、辛いこともあったけど、地元の人を知ることができて僕にとってもいいチャンスだったから、感謝しています(笑)。

家事を担う女性はすごいと気づいた
臣 僕はこの4年間、買い物、炊事、洗濯その他諸々すべてやっています。彼女は朝8時に公用車が迎えに来る立場だから、全面的に僕がやらざるを得ない。これがまたいい経験なんです。
藁 役割分担の切り替えを前向きに捉えてくれるお連れ合いで、よかったですね。これまでのお話しからは、そんな家庭的なイメージが全く持てない方でしたが(笑)。
絹 私も、今の話はちょっと納得がいかないです(笑)。
臣 今まで全部彼女に任せてきた僕は、これまでは、スーパーとコンビニの区別がつかなかったくらい世間知らずな人間だったんだよ。だから、日々とてもいい勉強をしています。
齋 臣道先生は大学内での女性の能力はご存知だったでしょうが、ご自分が家事をするようになって、家庭内での女性への評価は、変わりましたか?
臣 生活に直結することを朝から晩までやってる女性はすごいと、自分がやってみて初めて気がつきました。僕が炊事や洗濯をやっていると言うと、多くの男性は「それは大変だろう、俺にはとてもできない」と反応する。僕だって必要に迫られただけだけど、けっこう楽しいよ。
齋 男性も状況によって変われるんですね。
絹 でも、彼は自分の買いたい物しか買ってこないんです。家の中では、本は床の上に積み重なり、埃が溜まっている。だけど家に二人主夫(婦)がいたらうまくいかないですし、自分で自分のことをやってくれていることに感謝して余計なことは言わないと決めました。私も専業主婦の頃は、料理や家事は得意で大好きだったから良くやりましたが、今はほとんどできていないです。
齋 「男子力」という観点で、絹代さんは男社会に入ったことで専業主婦の頃と目線が変わりましたか? 想像していたことと、違いはありましたか?
絹 自分が仕事をしている上では、性別はまったく関係ないですが、市長になってから「世の中は男性社会なんだな」って以前より実感するようになりました。全国で813の市がありますが、その中で女性市長は18人だけ、たったの2%です。例えばどこの式典や竣工式に参加しても、男性がたくさん並ぶ中で女性は私と巫女さんだけというパターンがほとんどですよ。女性はより頑張らないと、その優秀さが発揮できない社会であることは確かです。
藁 女性は、仕事だけではなく、家事も育児も地域貢献活動も求められますからね。
絹  そう。たぶん男性の倍以上の努力をしないと、自分の能力ややりたいことを発揮できない社会だからこそ、女性は辛抱するし、たくましくなるし、上手に生きる術を身につけていくのだと思います。
齋 男性はこれまで、そんな努力をしなくても、仕事で成果を上げてさえいれば、社会が当たり前のように認めてくれましたものね。
臣 僕もそう思います。男性ってそれだけで有利なんです。

選挙資金は自力で貯めた
藁 選挙に出るには、多額の資金が必要ではありませんでしたか?
絹 我が家は、本当にお金がないんですが、私は専業主婦の時から子育て支援活動や防災士の資格で得た収入など、すべて『その時』のために貯めてきたんです。自分の力で挑戦したいと思っていたから、選挙資金に関しては夫に一切相談しませんでした。
藁 前々から『いずれはこのお金が選挙資金になるんだ』という思いで?
絹 もちろん、一番最初からそこまで決意して貯金を始めたわけではありませんが、少なくとも立候補する4年前くらいからは意識して、一生懸命働いてできるだけ貯金しようと頑張りました。
臣 そんなことを僕は全く知らなかった(笑)。そんなにへそくりを貯めていたなんてね(笑)。
絹 『へそくり』というのは夫の給料の中からやりくりしたお金を内緒で貯金することでしょう。自分の働きで得た収入を貯めるのは、へそくりではありません(笑)。
藁 つまり、ずっと専業主婦ではあったけれども、社会的な活動が実を結んで、ご自身の力で謝礼金をもらえる立場になり、選挙資金源はパート勤めで得た給与などではなく、謝礼金を貯めたのですね。
絹 そうですね。そうした貯金を全部使っても、挑戦したいと思いました。

染谷ご夫妻2 「女子力」、「男子力」から「人間力」へと変わる時
臣 『女子力』、『男子力』、という言葉は男女を前提にしているから、僕は違和感を覚えます。人間が100人いたら、100通りの性がある『n個の性』という考え方があるんです。n個=無数ということ。つまり、男と女という分け方そのものに問題があり、実態は違うんじゃないかという考え方です。
もしも、力強い存在が男性でか弱い存在が女性と分類するのであれば、現在の妻はまるで男性そのものの働きぶり。でも出会ったばかりの頃はかわいい女の子だったんですよ。僕になんでも付き従ってくるし、質問してくるし、僕のアドバイスのとおりに動いていた。12歳も歳が離れていたし、僕は教師で彼女は生徒だったということもあるからね。ところが今や完全に逆転です(笑)。僕が生徒で彼女が先生ですよ。

一度くらい自分の力で試してみたかった
藁 お二人は、その時その時でうまく「人間力」を発揮させるわけですか?
臣 そう 簡単に行くものではないし、抵抗はあるけれども、やらざるを得ないとなれば、自分をも変えなければいけない、それだけです。義務感の根底に愛があると思います。
齋 私たち学生の間では、お二人は仲の良いご夫婦として憧れの存在でしたが、絹代さんが臣道先生に『選挙に出たい』という意思を伝えたのは、お二人に強固な絆があったからですか?
絹 当時の私はもっと自分勝手に考えていました。このまま自分の人生に何も挑戦しないで終わってしまうのか?ずっと夫の下で『家族のために』を最優先にしてきたけれど、子どもたちも成長し巣立っていったのだから、今度は自分のやりたいことを自分の力で試してみたいという思いが強かったんです。
藁 島田市の教育委員や教育委員長を歴任され、子育て支援団体の「しまだ次世代育成支援ネットワーク」を構築されるなど、もう十分に素晴らしい活動を実現してこられたようにお見受けしていたのですが、ご本人が目指す次元はさらに上だったのですね。
絹 それらの活動で非常勤の報酬は得たかもしれないけれど、自分の力で給与を得たことが一度もなかったんです。
藁 正規雇用の経験を求めた先が、市長職だったと(笑)。
絹 自分で稼ぐという人生を送ってこなかったから、自分の足で立って挑戦してみたいという思いがありました。
臣 そうして得た現在の充実感はすごいだろうなあ。
藁 決意して求めて得た仕事が、市長職ですからね(笑)
齋 学生結婚されてからのお二人の経緯は、ジェンダー論で考えると夫が妻の人生を奪っているようなものだとも言えるかと思うのです。でも、絹代さんがやりたいと願ったことを臣道先生が尊重した根底にあるのは、愛情でしょうね。
臣 結婚してからの40年を振り返ってみれば、僕の給料で一家の生計を立ててきたけれど、僕を支えるというポジションにしか、彼女自身は立っていなかった。家庭の主婦として務めているのだから僕の収入の半分は君のものだよと伝えたこともあったけれど、実際に給料を受け取るのは僕だから、彼女自身は、納得できなかっただろうね。彼女は自立して初めて自分の力で報酬を得た時、大きな達成感を覚えただろうし、毎月の働きを報酬として評価されることが励みになっているはず。僕自身も過去40年間ずっとそうだったから、その喜びはよく分かります。
藁 夢が叶ったわけですね。
絹 とは言え、達成感と同時にお金を稼ぐということはこんなにも大変なことかと痛感する苦労や難題も多いです。市長になってから、仕事のことばかり考え眠れない夜もあるし、孤独な立場だなあと思います。だけどそれでも、私が市長になってから島田市が良くなりましたねと言ってくださる方たちの声に励まされて、今自分は立っています。人生一回きりなら、みんなどこかで自分の足で立ってみたいと思うはずです。
臣 現代の日本は、ようやくそういう社会を迎えていますね。
齋 でも最近は、夫婦で働かないと生活が成り立たないカップルも多いですよね。
絹 確かにその通りです。昔はどちらかの働きだけで暮らせたから、性別による役割分担ができたけれど、今やそれができない時代になってきて、共働きで子どもを育てる困難さから、結婚しない選択をする人も増えていますよね。子育て支援のトップランナーを自負する島田市でも、結婚している方が平均して二人以上の子どもを産んでいても、市の合計特殊出生率は1.51人。結婚しない生き方を選択する人の増加や、晩婚化が数字に表れていて、二極化が進んでいます。今はいろんな生き方を自分で選択できる可能性が広がった分、悩みも増え、自分はこれでいいのかと、周りと比べられなくなった。今の若い人の方が生きることが苦しいかもしれないですね。

誰もがライフワークを見つけるべき
藁 絹代さんは、お連れ合いとバトンタッチするかのようなタイミングでご自分の願いどおりの一歩を踏み出されました。一方で夫の臣道さんにとっては現在の状況は想定外だったはずですが、探究心を持って毎日を楽しんでおられるようで、素晴らしいですね。
臣 定年を迎えて大学の仕事はリタイアしたけれども、僕には研究という自分が一生続けたいと思うことがあります。現在も毎月一回は東京で研究会を開いて本も出しているし、議論を重ねた成果を形にするべく、第二号第三号を出版したいと皆で頑張っている。もしこのライフワークがなくて家事ばっかりだったら、おそらく不満が溜まっていたでしょうね。それは世間のどの男性、女性にも通じることではないでしょうか。
絹 夫は、ライフワークへの情熱の方が家事よりも大きいんですよ。それで、たまたまご飯を作ってくれる人がいないから、自分でやってるだけのこと。だから私たち夫婦は完全にバトンタッチして家庭と仕事の役割が入れ替わったわけではなく、それぞれ自分の求めることがあって、お互いに好きなことをやっている状態だと思います。
藁  仕事が趣味で生活のすべてだった方に起こりがちな、定年後にそれまでの仕事中心の人間関係が断たれ地域とのつながりもなく、自分が引退後にやりたいことが見つけられないまま孤立してしまうというパターンに陥らなくて、本当によかったですね。
臣 会社の仕事を自分の生き甲斐にして、人生のすべてを捧げていると、定年後に大きな空虚感を抱えて悩んでしまうよね。よくそういう話を聞く。でも、会社勤めには定年があって、それ以降も人生は続くと分かっているのだから、誰もが仕事とは別にライフワークを見つけるべきだと思いますね。僕だって、今はもう克服したけど定年を迎えてから二、三年は、落ち込んでいました。だって大学にはもう自分の替わりがいるわけだから、自分の無用さを突き付けられたような気がして、しばらくおかしかったと思う。
絹 女性だって同じですよ。夫がインドネシアで外務省専門調査員として日本大使館に勤務をしていた頃は、私にも毎日外交官の妻としての仕事があった。でも帰国後は、夫は翌日からまた仕事に出るけれど、私は子どもを育てながらの家事という、インドネシアでいうなら「メイドさんの仕事」をするだけの毎日で、世の中の人は誰も私に関心を持ってくれず、私がここにいるということさえ分からない。世の中から見捨てられたような気持ちがしました。どうして夫は帰国後もすぐに「次の職場」があるのに、私は家事育児以外に自分を発揮できない暮らしを送らなければならないのかと、何年も引きずって苦しみました。まあ、そういう九州での経験があったから、島田に越してからはいろんな活動を始めたわけですが。
藁 絹代さんの活動一つひとつに、実感が込められていますよね。当時の自分を救うような気持ちが、様々な活動の原動力であったことが伝わってきます。
絹 そうですね。当時は本当に切なかったですからね。

社会で共生していくために大切なことは
齋 最後に、お二人にうかがいますが、社会の中で男性と女性が共生していくために一番大切なことは何だと思われますか?
臣 男性も女性も年齢や職業によって様々ですから、個々人に分解してみたら『多様性』を認めることこそが大事です。そういう意味においては、男性と女性とに分ける事すらも大雑把すぎると思います。「女子力」「男子力」よりもやはり個人の力が大事ですね。この社会において自分の能力や気持ちを踏まえて、私は何をしたらいいのかと自分に問いながらどう挑戦できるかが、多くの人にとって大事なんじゃないかな。
絹 私は、女性はより生活に密着した視点で物事を考えると思っています。例えば、大通りの街灯は基準を満たした間隔で設置されていますが、この基準は、道路を車で走るのに最適な明るさかどうかなんですね。でも女性は歩行者の視点から、この明るさでは暗いと感じ、防犯用に追加の照明が必要だと気がつきます。つまり、男性と女性とでは見える物が違うし、関心の対象も違うと感じます。この社会では、男性と女性、両者の目線が必要です。そうして物事を立体的に見ることが大事なのではないでしょうか。

編集部追記:染谷臣道さんは2016年8月5日、74才で逝去されました。謹んで哀悼の意を表します。

染谷ご夫妻写真s3【Web版に寄せて・染谷ご夫妻取材後記】(文責:編集員 藁科)
染谷臣道さんは2016年8月5日、74才で逝去された。謹んで哀悼の意を表したい。

2016年7月23日の染谷臣道・絹代ご夫妻への取材の席では、お二人から健康上の話題は全く出なかった。
染谷さんは大学の教授職を引退後も研究をライフワークとして続けて、絹代さんに代わって家事を楽しみながらこなしつつ、ご自身の第二の人生を探究心をもって前向きに過ごしておられた。

※染谷さんのライフワークについてはぜひこちらのサイトをご覧ください。
→「比較文明・環流文明研究会のご案内」

そして染谷さんは、絹代さんが専業主婦として家族に全てを捧げてきた日々を経て、生きている間に一度くらい自分の力で人生を切り拓きたいと奮起していることを、頼もしそうに誇らしそうに自慢しておられた。
強いパートナーシップでむすばれながら、それぞれが充実した時間を送っておられて、本当に素敵なご夫婦だなあと憧れ、心に残る取材だった。

それから2週間後、取材のテープ起こしが終わった矢先に、染谷さんが急死したとの報せを受け取った。当人が一番驚いているに違いない、晴天の霹靂のような展開だった。お仕事で多忙を極めていた絹代さんの心痛は察するに余りある。

今回の取材時に撮影し、『ねっとわぁく67号』の本誌に掲載した、笑顔あふれるご夫妻の写真を、生前染谷さんは「今の私たち夫婦を象徴するような良い写真」と喜んでくださっていた。また、夫婦そろっての取材を受けたことについても、「2人のこれまでを振り返ることができて、自分たち夫婦にとってとてもいい機会になった」との感想もいただいた。

今回のインタビュー記事を通じて、染谷臣道さんの最期の明るいお姿が少しでも世に伝わればと祈る思いだ。あのご夫婦の笑顔の記念写真は、染谷さんが最期まで充実し満足した人生だったことの証しだ。

当の染谷さんは今もきっと、お空からニコニコ笑って絹代さんを見守り応援しておられる。 そして私たちに、誰もが性にとらわれることなく自分の道に挑戦するように励ましてくださっている。

取材の個人的な感想としては、人生はいつどうなるか本当にわからないから、毎日精一杯励んで、そして家族や友人にはいつも笑顔で感謝と愛を伝えなくちゃいけないんだなって、わが身を心底反省した。

最後に、突然の訃報にもかかわらず今回の記事を予定通り出版・公開することを快諾してくださった染谷絹代さんに、心から感謝申し上げます。