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【ねっとわぁく Vol.71+α 】当事者からあなたへ 大切な人に寄り添うということ・永田 怜さんへのインタビュー記事を全文掲載

2018年12月10日

【Web版】当事者からあなたへ 大切な人に寄り添うということ

トランスジェンダーの永田怜さんは、明るくさわやかな笑顔が印象的な青年だ。仕事に励み、トランスジェンダー当事者としても積極的に活動している。そんな怜さんは、どのように育ってきたのだろう。

今回は怜さんのお母さんに、怜さんの子ども時代や母親として感じてきたことについてあらかじめ書面で回答してもらった。怜さんには、その回答を踏まえ、子ども時代のエピソードやこれからについて語ってもらった。

男性として生きる一人のトランスジェンダーの半生を、親と当人の視点から俯瞰するインタビュー。望みどおりの生き方を目指し多様な生き方を認めあう豊かな社会を実現するための、ヒントを探そう。

(聞き手 『ねっとわあく』編集員  藁科可奈)

※紙幅の都合で本誌には掲載できなかった部分を含む、【Web版ノーカットバージョン】をお届けします。

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永田怜(ながたれい)さん

ねっとわあく71号永田さん画像1993(平成5)年静岡県生まれ。25歳。幼少期からピアノに親しみ、数々のコンクールに出場。スポーツも万能で、ソフトテニス、サーフィンなどをたしなむ。高校を卒業した春にトランスジェンダー(FtM)であることを両親にカミングアウト。ホルモン治療および性別適合手術を受け、2018(平成30)年4月に戸籍を男性に変更。看護師。浜松国際総合事務所LGBT支援担当。

 

 

 

 

 

 

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「周りの子と比べて自分は違うな」、とずっと感じていた

ねっとわあく71号 永田さん画像

母 『幼少期…幼稚園に入る少し前、地域サークルの「3才っ子教室」に出かけた時です。いつもはとても元気で、活発なのに、見知らぬ幼児が十数名いる中、託児をするため預けようとすると、大変な抵抗にあいました。それまで託児などをしたことがなかったので、大泣きされてしまいました。見知らぬ場所、人、友達が怖かったのと、私から離れてしまうことも嫌だったのでしょう。母親の私もとても驚きました。大人(親)が思っているよりずっと子どもは感受性が強く敏感なのですね。

 

 

 

ねっとわあく71号 永田怜さん②3歳 お庭でプール

母 『怜は幼稚園の頃から女の子とのままごとをするよりも、男の子と遊ぶ方が楽しかったようです。小学生の頃は男子とも女子とも仲が良く、活発に学校生活を送っていました。』

怜 小さい頃は男の子と遊んでいた記憶の方が多いですね。おままごとは絶対いやだと思って、鬼ごっこなどをしに、外に遊びに行っていました。たぶん自分が思うままに男の子と追いかけっこしたり、身体を動かすことの方が好きだったんですね。

 

 

 

ねっとわあく71号 永田怜さん③

母『小学生の頃…男子とも女子ともよく遊んでいるけれど、小学1年の担任の先生から仲間で群れることもなく一人で帰宅するのを心配されたことがありました。でも学校から自宅が近いことや、同じ帰り道の子が一人くらいしかおらず、他に問題もなかったのでそのまま過ごしました。そういえば小1の時、足を骨折した男の子のために、ほとんど毎日カバンを持ってあげたり(教室の中や帰宅準備の時)お手伝いをしていたそうで、あとからご両親や先生からお礼を言われたことがありました。(私もまったく知らないことで、びっくりしました。)

2年生以降もどちらかというと男子にも女子にも仲良しが多く、活発に学校生活を送っていました。ドッヂボールを参観会で見たとき、女子なのに男勝りで、男子と強いボールの投げ合いをし、周囲の親たちから「わぁ~すごい」などの声がかけられました。

小学高学年になると、女子の中では目立つ存在だったかもしれません。この頃には「人の役に立ちたい」とか「人を助けてあげたい」などの行動がありました。リーダーや応援団長なども周囲からすすめられてやっていました。

兄弟のこと…現在もそうですが、小さい時からとても仲良しです。兄も優しいタイプで二人の大きいケンカをする姿を見たことがありません。口げんかしたり、悪ふざけをするくらいですね…。怜はきっと兄のようになりたかったから、自然と兄のするいろいろなことを楽しんだり、時には従ったりしていたのかもしれないです。兄の方は少し子どもっぽい所があり、怜の方が冷静で(?!)少し温和に見えるかもしれません。(…でも二人とも活発ですが…)』

 

ねっとわあく71号 永田さん日記①

ねっとわあく71号 永田さん日記②

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【小学校1年生頃の日記より ※日記をクリックすると画像が大きく表示されます】

 

 

 

怜 小学校入学時はランドセルの赤い色が嫌で泣いていました。今の子はランドセルが色とりどりで、選択肢が多くてうらやましいです。

― 今だったら何色のランドセルを選びますか?

怜 もちろん黒ですね。「周りの子たちと比べて自分は違う」と感じていたけど、自分でもなぜ赤いランドセルが嫌なのかわかりませんでした。

ねっとわあく71号 永田怜さん④今日は小さなころの写真を何枚か持ってきました。「こんな頃もあったね」と思い出しながら、実家で母と一緒に選びました。

― どれも可愛いですね。小学生の頃、ピアノの発表会で女子用のフォーマルな装いをしていますが、それについてはどう感じていましたか?

怜 やっぱり嫌でしたね。でも、周りの女子たちもドレスを着ている中で、自分だけ着たい服を着るのはおかしいのかなと思って我慢して、そこは仕方ないと割り切っていたと思います。

僕は日ごろは兄のおさがりのズボンなどをはいていることがうれしかったのですが、母は自分にはピンク色のスカートなどを買ってくるから、僕だってお兄ちゃんみたいな服が着たいのにって泣いていました。母は僕が女子の服を嫌がって泣いているとは思いもしなかったでしょうが。

 

ねっとわあく71号 永田怜さん⑤僕は兄のおさがりの服を着ることがうれしかったのですが、次第に周りの目が気になって。「みんなみたいにしなくては」と、嫌だったけど義務感で女子の服を着ていました。

高学年になると周囲で恋愛の話題が出るようになって、僕も仲の良かった男子全員にバレンタインチョコをあげました。周囲の女子に話題を合わせるために、特定の男子が気になるふりもしていました。

 

 

親にも友人にも言えない初めての恋

母 『中学生時代も友達が多く、男子とも女子とも上手にコミュニケーションをとっていました。思春期を迎えても、男子とも自然に会話ができる怜のことを快く思わない女子もいたようですが、怜は良い友達に恵まれたので、大した問題にはならなかったようです。』

『怜は男勝りの女の子なのだと思っていました。中学生で生理が始まったときは、親としてなぜだか少し安心しました。ところが怜はすごく嫌そうで、下着が汚れてしまうと不機嫌になりました。(今となればもっとケアしてあげるべきだったのに、と思いますが、トランスジェンダーに関する情報もなく、ケアする方法もわかりませんでした。)

中学2年生までは、怜は自分から、私や夫に話しかけてくれる素直な子どもでした。中3の頃、ぼんやり悩んでいる姿を見かけるようになりましたが、怜は親に自分の気持ちをぶつけてくるようなタイプの子どもではなかったので、学校での勉強や友人関係の、思春期特有の悩みを抱えているんだと思い込んで、見守っていました。』

― 中学生の頃は何に悩んでいたのですか?

怜 どんどん成長し身体が変化していった時期で、違和感も強くなっていきました。お風呂で自分の胸を殴っていましたね。何人かの男子とお付き合いをしましたが、違うと感じて心から好きにはなれず、そのことは親にも仲のいい友達にも言えませんでした。そして3年生の時にソフトテニス部の後輩の女子と仲良くなって、僕はその子に恋をしたんです。その頃から、自分は何なんだろうと考え込むようになりました。

中学卒業間際に、その後輩から「つき合ってください」と書かれた手紙をもらいました。手紙のやり取りをする程度の友達付き合いと、本当に交際するのとは全然違いますよね。

自分の本心は彼女のことがすごく好きで交際したかったのですが、その場に居合わせた友だちに「それってレズじゃん」と突っ込まれてしまって…。友達に「レズだ」と指摘されたことが、頭から離れなくなってしまったんです。それで周りからどんな風に思われるか気になり、彼女には何も返事ができず、それっきりになってしまいました。

 

悩むわが子を見守り続けた

― お母さんは怜さんの葛藤に気が付いていましたか?

母 『高校時代の怜は悲しみのどん底で、本当に辛い時期だったのだと思います。私もどう対応していいのか迷っていました。進学校に入学し、周りはまじめに勉学に取り組む生徒が多かったので、怜の悩みはとても口に出せる状況ではなかったでしょう。その上、思春期から大人へ向かう段階に入り、周囲は女子特有の話題がエスカレートしていく中で、怜は自分の存在価値が見いだせなくなっていったと思います。それでもまだ私には何も言わず隠し通して、私も全く気づかずにいました。男子とお付き合いし、自宅に一、二度連れてきたこともありましたから…。親にも友達にも、自分の本心を気づかれないよう無理をしていたのでしょうね。今となっては本当に申しわけなく思います。怜が部屋でふさぎ込んでいると、親としては心配でたまりませんでしたが、怜が何かに悩んでいる…ということは感じていても、私自身も高校時代は悩んだり落ち込んだりしたので、それ以上本人に問いただすことはしませんでした。怜が私たちに悩みを打ち明けてくれたのは、高校を卒業してからでした』

ねっとわあく71号 永田さん日記③

 

 

 

 

 

 

 

【平成18年頃 前述の小学校1年生時の日記を見つけたことを受けて
※日記をクリックすると画像が大きく表示されます】

 

心の拠り所はネット上のつながり

怜 高校時代はひたすら悩み、勉強も部活も一切身が入らなくなりました。性同一性障害の当事者のブログに書いてあることが自分と一致すると気付いて、僕は男性として女性が好きなんだと自覚しました。やっと自分の中のモヤモヤが何か分かってホッとした気持ちの一方で、誰にも言えない秘密を抱えて、自暴自棄になりました。この社会では絶対に男性として生きてはいけないし、親に本当のことを伝えたら見放されると思っていました。なんとか頑張って男性と付き合えば、将来結婚もできて親も喜ぶんじゃないかと考えました。そして試してみたけど、全然だめでもっと落ち込みました。

― その状況からどのように抜け出したのですか?

怜 現実は高校を卒業するまで孤独でした。しかし高校2年生くらいから、匿名で性同一性障害の当事者としてブログを始めたことが心の拠り所になりました。ブログでは本当の自分をすべて出すことができたし、当事者の友だちともネット上で交流を深め、情報を得ることができました。治療を始めている人や、周囲に受け入れてもらっている人たちがネット上にはたくさんいて、自分もそんな生き方をしたいと思いました。

高校2年生の時に長かった髪をバッサリ切りました。表向きは「部活を頑張りたいから」と理由づけしていたのですが、あまりにも一気に髪を短くしたので親は驚いていました。しかも美容室での女性らしいスタイリングが気に入らなくて、自宅でさらに自分で髪を切ったので、親は洗面所のごみ箱に捨ててあった大量の髪の毛にまた驚き、口には出さなかったけど心配していたと思います。

 

当事者仲間と養護の先生に救われた

怜 同じころ、ブログを通じて知り合ったトランスジェンダーの当事者と地元で会いました。僕よりも二つ年上のFTMの人でした。同じ立場の人が身近にいることがすごくうれしかったです。親にどう伝えるか、周囲にどう接していくか、悩みを相談できてとても安心し、少しずつでも前進している気持ちになりました。

― 怜さんが両親に打ち明けると決めたきっかけは何ですか?

怜 高校を卒業する直前に、授業を抜け出して保健室に行きました。誰かに悩みを打ち明けないと頭がパンクしそうでした。そんな状態の僕に養護の先生が「ゆっくりでもいいから、もし言いたいことがあったら言ってね」と声をかけてくれました。それで、「もしかしたら自分は性同一性障害かもしれない」と、震えて泣きながら伝えました。すると先生は、以前も同じ悩みをもった生徒がいたと教えてくれました。僕にとって初めてのカミングアウトでしたが、先生がただ話しを聞いてくれたことがうれしくて、僕みたいな人間がいてもいいんだと、認めてもらえた気がしました。

先生に、「悩みを親に伝えたいけど反対されそうで心配だ」と話したら、先生は「親はきっと理解してくれるし、ずっと子どもの味方でいてくれるから大丈夫だよ」と励ましてくれました。そのことがきっかけで、親にも伝えていいかなと思いました。

― 親には一番理解して受け入れてほしいからこそ、期待を裏切られたら耐えられないから、初めてのカミングアウトは結果が期待外れでも困らない、でも信頼のおける相手として高校の養護の先生にした。すると養護の先生に大人の立場から保護者は受け入れてくれるから伝えてみたらとアドバイスをもらえた。当時の永田さんは保健の先生と話すことで相当気が楽になったでしょうね。

怜 まずは第一関門突破という気持ちでした。ここが無かったら次に進めなかったですね。

― 教育現場で先生の生徒へのかかわり方は影響が大きいですね。

怜 そうですね。その先生からは僕の悩みを認めて受け入れようとしてくれていることが伝わってきて、僕は救われました。

 

 

両親へ長年の秘密を打ち明ける             

― 怜さんの悩みを知って、どんなことを考えましたか?

母 『夫と私へのカミングアウトは2012年3月。高校卒業後すぐに、怜の気持ちを綴った手紙を渡されました。自分の言葉で小さい時からの感情、これまでの身体の異変と動揺、不安、怒り、逃れようのない現実に対する恐怖など、様々な気持ちがそこにはありました。そんな苦しい中にもかかわらず、親に対する礼儀や感謝の言葉も書き添えられていました。この時ほど、親として何もできなかった自分を情けなく、恨めしく思ったことはなかったです。でも「怜のことを何とかしてあげなくてはいけない」と感じて、その晩は夫と怜のことを話し合いました。「怜が私たちの子どもであることは何も変わらない。怜が望んでいるようにクリニックを探し、この後の人生はまっすぐ自分がしたいことができるように見守っていこう」と、私たちの気持ちはすぐに決まりました。翌朝、怜にしっかり向き合ってそれを伝えました。』

 

― 養護の先生の励ましに後押しされて、両親に手紙を書いたんですね。

怜 自分がどういう時から違和感があったのか、当時ブログを通じて知り合い交際していた一つ年上の彼女の存在、これからどういう生き方をしたいかなどを便箋6枚くらいの手紙に書きました。

進学が決まっていた看護師の専門学校には新しい自分として通いたくて、親に伝える最後のチャンスだと思いました。でも僕の周りの当事者は親に反対された人が多かったので、きっと僕も同じで家から追い出されるのではないかとまで思っていました。

手紙を直接渡すことができなくて、母の入浴中にこっそり母の鏡台におきました。母の部屋は僕の隣だったので、壁に耳を当てて様子をうかがっていたら、手紙を読んだ母の泣く声が聞こえました。自分は親不孝だと絶望して僕も泣けてきて、親に伝えたことを後悔しました。でも、その後母が父に「怜は怜で、これからも自分たちの子どもだし何も変わりないよね」と言ってくれました。僕は親が絶対受け入れてくれないと思い込んでいたので、予想外の母の言葉が本当にうれしくて、希望を感じました。

― 親がカミングアウトを前向きに受け止めることは、現実にはなかなか難しいですよね。

怜 好意的な反応をしてもらえることはめったにないようです。でもあの時親から「頭がおかしい」とか「気持ちが悪い」とか「出ていけ」と否定されていたら、僕は絶対傷ついて、もしかしたら自殺していたかもしれません。自分がこれから先の人生を堂々と生きていけるか、あるいは周囲に隠してずっと悩み苦しみ続けるか…。あの時の親の言葉が分岐点になりました。両親は「自分たちが生きている間は、支えられることがあると思うから、もっと頼ってね」と言ってくれました。それまでどれだけ悩んでも相談できなかったのですが、やっと親に助けを求めてもいいのかなと思えるようになりました。親にだけは理解してもらいたかったし、もし親に見捨てられたら生きていけないと思っていたので、ものすごくうれしかったですね。もちろんうちの親ともその後はそれなりに葛藤がありましたが、

 

 

ねっとわあく71号 永田さん画像大切な人に寄り添うということ

― 怜さんの悩みを知る前と後で、怜さんへの態度や言葉のかけ方は変わりましたか?

母 『怜は、私たちが変な嫌悪感を抱かず自分のことを見てくれると感じたとき、安堵したと思います。もちろん理解者は一人でも多いほうがいいですが、まずは親が見守っていることがとても重要だと思いました。カミングアウトの後は、悩みの原因が分かったので、寄り添うような語り口になっていきました。

夫は口数は少ないけれど思いやりのある人なので、何も言わなくても視線や態度で怜にはわかったと思います。クリニックにも必ず付き添ってくれました。

急に態度や言葉を変えたというより、お互い徐々に歩み寄る感じでした。怜もそんな私たちの対応に少しずつ安心し、気持ちを隠さずに言うようになりました。』

 

【クリニック受診と親の葛藤】

母 『怜の悩みを知ってからは、自分のことを責めるよりも、どうしたら怜が怜らしく生きていけるのか…ということを考えました。でもクリニックの先生のお話を聞いても、自分の娘を息子という見方をするのには時間がかかりました。私は「トランスジェンダー」とか「性同一性障害」という言葉はなんとなくテレビや本などで見聞きしていたほどの知識しかなく、怜が本当にそういうたぐいの人間なのかよくわからなくて、心の中では間違いであってほしいと願っていました。私の頭の中では、怜のために何が一番ベストなのか、どうしてあげれば喜んで生活できるのか考えているのに、心の中では悲しむ自分がいて、それを誰にも言えず、私の中でも怜のことを理解する上での葛藤があったように思います。

何回かクリニックに足を運び、その度に怜は少しずつ自分らしさを取り戻していきました。自分の目指す方向性などもすでに計画をして、先生との面談も有意義なものだったようです。私たちはそういう怜の怜らしい姿を見て、怜にとって幸せなこと(幸せの方向性)を後押ししていると確信していきました。(最初に受診した)クリニックでレンタルした本はかなり古いものから新しいものまであり、昔からこの障害や問題があったのだと知りました。手術の方法なども書かれていて、最初の頃は怜の身体にメスを入れるのがとても辛かったことを思い出します。でも何年かして、そのことが怜の幸せにつながるのだと理解していくことができました。

 

― 両親の葛藤には気が付いていましたか?

怜 はい。自分が今後手術やホルモン注射をしたいと何回か伝えても、「もう少し考えてからでいいんじゃないか」と言われました。親は応援してくれていた一方で、自分が「やっぱり違った」と言い出すんじゃないかと思っていたようです。

― 怜さんが後戻りできなくなっても大丈夫なのか心配していたんですね。

怜 うちの親戚は男の子ばかりで、僕が生まれた時、祖父母や両親は待望の女の子、姫を授かったと大喜びしてくれた経緯もあります。自分が性同一性障害であることを認めるまでに僕自身もすごく時間がかかったけれど、親は僕以上に悩んだと思います。

― ご両親付き添いの元で通い始めたクリニックは、どうやって選んだのですか?

怜 専門学校の担任の先生が情報をくれたり、父がインターネットでいっぱい調べてくれました。

― 黙って動いてくれる、素晴らしいお父さんですね!

 

兄や親せきへカミングアウト

― お兄さんにはいつ伝えたのですか?

怜 兄の就職が決まって実家に帰ってきたときに、僕が親に書いた手紙を親が兄に読ませました。兄は泣きながら僕に「気が付かなくてごめんな」、「これからは弟として接するから」と言ってくれました。兄の周りにも当事者がいて、性同一性障害への理解もあったので、兄もスムーズに受け入れてくれました。

― 親戚への対応は親として越えなければならないハードルだったと思いますが?

怜 当時ちょうど従兄弟の結婚式を控えていて、両親も相当悩んだようですが「あなたのことを考えたら、やっぱり伝えておいた方がいいね」と親戚に電話で、「今後は治療もするから、結婚式に怜はスーツで出席するよ」と事情を説明してくれました。おかげで、式当日はスーツ姿の僕に誰も驚かずにすみました。

祖父母には両親が事前に家に招いて、僕の手紙を読んでもらいました。祖母は泣きながら「怜が生きているだけでいいのよ」、「今まで辛かったと思うけど、怜が幸せになってくれたらそれだけでいいんだからね」と言ってくれました。その言葉もすごくうれしかったですね。

僕は、祖父母世代からはきっと拒絶されるから、むしろ真実は隠したほうがいいのではと思っていたんです。特に祖父は孫娘の僕をとてもかわいがってくれていたので、内心は相当ショックだったと思うのですが、大事な孫だからと受け入れてくれました。

 

【友人へのカミングアウトは大人になってから】

― 自分の性について、家族以外にはいつから伝え始めたのですか?

怜 幼いころから仲の良かった友達、理解してほしい友達には、成人式の前くらいから伝えていました。そしたら、その友だちが僕のために成人式の前に集まる機会を設けてくれて、そこでみんなに伝えることができました。おかげで成人式にも参加しやすかったので本当にありがたかったです。みんな理解してくれました。

自分のセクシャリティを隠したまま地元で生活を続けることは苦痛ですし、本当のことを伝えた友達にもし裏切られてしまったら、地元を出ていくしかない。僕は、僕のことを受け入れてくれた友達がいたから、故郷で生活を続けることができました。

― 中学3年生で後輩の女子から告白された時、居合わせた仲の良い友人から差別的な反応をされましたね。彼らも、成人式前のその集いの場にはいたのですか?

怜 はい、いました。その友達は今ではすごく理解してくれています。思春期特有の幼い態度をとっていたころから比べたら、みんなすごく大人になったなぁと思います(笑)。中学生の時にみんなに伝えていたら、どうなっていたかわからないですね。僕もみんなも大人になってから伝えたから、受け入れてもらえたと思います。

― 生まれた時から大人になるまでずっと静岡県内にお住まいで、幼馴染との交流が今でも続いているのですね。

怜 はい。だからみんな性別が変わった僕の事情を知っています。

 

周囲の態度を当事者は観察している

 

― 怜さんが子どもの頃、テレビ等でLGBTを見聞きした時、両親や怜さんはどのような反応をしていましたか?

母 『怜の子ども時代にLGBTに関連するドラマ「ラストフレンズ」(長澤まさみ、上野樹里、瑛太出演、2008年)がありました。怜はドラマの中のトランスジェンダーの登場人物を自分と重ねて観ていたのだと思います。(当時の私はそんなことも気が付かずにドラマを観ていました。)怜は興味深そうにしていましたが、特に何か話すことはありませんでした。私は「こういう風に女性でありながら男性のように振る舞い、女性を愛する人がいるのだなあ」というくらいの認識でした。実は私の高校時代にも、女性であるのに男性らしい振る舞いをしていた先輩がいて、高校の生徒会長などをしていました。そのため、変な違和感はさほどなく、ドラマやテレビを観ていました。また、30代からダンスをしているので、バレエやジャズダンスの仲間にもそういう人たちがいるのは知っていました。嫌悪感は全くないです。むしろ愛らしい(人から好かれる)感じさえしました。

(これは他人のことだからそう思うのですが、やはり自分の子どもが…と知ったときは様々なことが頭をよぎりましたが…)

怜にとっては、私が変な嫌悪感を抱かず、自分のことだけを見てくれると感じたときは、安堵したと思います。理解者が一人でも多くいてくれることはもちろんですが、まずは両親が見守っていることはとても重要なことだと感じています。』

 

― 永田さんが中学生の頃には、メディアで性的マイノリティのことがドラマのテーマとして取り上げられる時代だったのですね。

現在からそう遠くない過去の日本社会では、テレビなどのメディアで差別的な企画やふるまいがお笑いの表現方法のひとつとして認められていました。今でこそあからさまな差別的な表現は減ってきていますが、残念ながらなくなってはいません。日常生活でそのようなシーンに接した時、身近な大人がどのように反応するかは、子どもの価値観を形成する上で非常に大きな影響を及ぼします。でも、ご両親は、バラエティ番組の差別的なネタを面白がるタイプではなかったようですね。

怜 もしそういう人たちだったら、たぶん僕が親に秘密を打ち明けるタイミングはもっと遅かったか、もしかしたらずっと言えずにいたかもしれません。身近な存在の人たちだからこそ、何気ない一言がとても心に響きますから。

― 周囲の人の考えや態度を当事者は常に観察しているのですね。

怜 専門学生時代に、今でも仲のいい地元の友だちがトランスジェンダー当事者のことを否定的に話しているのを聞きました。自分のことを悪く言われているような気がして、こいつらには絶対言えないし、言いたくないと思いましたね。何年後かに謝ってくれたから今はもういいんですけど。

逆に、性的マイノリティに対して肯定的な発言をしている人には、自然と自分のことを打ち明けやすいです。だから例えば職場や学校にレインボーフラッグを飾るだけで、そこはLGBTを理解しサポートを目指している場であると当事者に伝わるので、とても支えになると思います。

― 「身近にLGBTの当事者がいない。そんな人実際にいるの?テレビの中だけのことじゃないの?」と思っている人の多くは、当事者が左利きやAB型に近い割合で存在するとの調査結果に、現実とのかい離を不思議に感じているようです。しかし永田さんのお話を聞いていると、当事者であることを隠している方々は、私たちの日ごろの些細な言動から自分たちの抱えている悩みに対してどう考えてどうふるまう人か、とても慎重に、敏感に察知していて、私たちの態度によって悩みを打ち明けるかどうかを決めているようですね。だとしたら、身近にLGBT当事者がいないと不思議に思っている人は、自分が性的少数者に対して無関心な態度をとっていないか、無自覚のうちに不用意な言動をしてしまってはいないか、ふりかえるべきなのかもしれません。

 

【専門学校時代】

― 高校卒業後、両親や周囲へも真実を伝えて、専門医を受診するなど、具体的に治療する方向へ進み始めたわけですが、進学先の専門学校にはどのように伝えましたか?

怜 専門学校に入学したころは、ホルモン注射をはじめていなかったので、外見上はボーイッシュな女性の状態でした。僕自身もこの状態で男性であると主張できる自信がなかったので、事務手続き上は女性として入学しました。でも初めから先生方には本当は男性であることや今後治療を受ける予定であることを伝えました。

専門学校では自分らしく通わせてもらいましたが、女性用のデザインの白衣を支給されたり、男性用トイレの数が校内に少なかったり、困ることも多かったです。課題が見えてくるたびに、担任の先生に相談していました。

 

公衆トイレは当事者の悩みの種

怜 進学先の看護師養成専門学校には、同じ学年に男子学生は僕を含めて三人しかいませんでした。構内のトイレは女性用と男性用だけで、ユニバーサルトイレがなかったので、外見上はまだ女性だった僕はとても困りました。他の男性と鉢合わせしないように、授業を抜け出して用を足したり、人気のない遠い校舎の男性用トイレまで走っていました。

 

― 高校生までは女性としてふるまっていたから女子トイレを使っていたけれど、専門学校に進学してからは周囲に男性であると伝えはじめていたこともあり、トイレも男子トイレを使いたかった。でも外見上はまだ女性で、学校への登録も女性だったから実習の白衣も女性のデザインを支給されてしまったんですね。男性用の白衣を着られなかったのですか?

怜 学校に何度もお願いしたけどダメでした。最後は「別に男性用を着てもいいけど、今さら買い直すのはもったいないのでは?」と言われました。それでも男性用を着たかったけど、諦めました。

専門学校2年生の頃から始めたホルモン治療の影響で、声が低くなり体つきが代わっていきました。外見が男性らしく変化していくと、女性の名前で女性用の白衣を着ている僕が病院実習で接した患者さんを困惑させてしまうようになったので、学校を通じて実習先の病院では改名予定の(現在の)名前を名乗らせてもらいました。

 

― ちなみに怜さんの進学した専門学校には、これまでトランスジェンダーの学生はいましたか?

怜 僕が初めてと聞いています。

― 風穴を開けたんですね…!その学校では怜さんが専門学校で直面した課題が「前例」となって、きっと次の後輩に活かされていくんでしょうね。

― 専門学校の先生方はとても親身になって寄り添ってくれました。僕の就職先のこともずいぶん心配してくれて。今働いている病院も、僕みたいな人が働くのは初めてだったのですが、就職前のガイダンスで相談したらしっかり対応してくれました。入社当時はまだ手術も戸籍変更もしていなかったのですが、男性用の白衣を支給され、男性用の更衣室を使えることになり、カルテの名前と性別を男性のものに変更してくれました。

― まさに理想的な就職を果たしたように見えますが、入社後に困ったことはありませんでしたか?

怜 男性として就職できたことはよかったのですが、今度は僕が元女性であることを周囲は知らないという逆転現象が起きてしまいました。

― 見た目も事務登録も制服も男性そのものになったために、「逆カミングアウト」が必要になってきたわけですね。

怜 そうです。周囲との関係を良好に保つために、自分の意志とは関係なく「僕はトランスジェンダーで元女性です」と伝えなければならない状況が何度かありました。

 

トランスジェンダー当事者の入院受入れ制度を確立したい

怜 男性看護師として病院に就職し、医療者となった僕がこうして人前で話をする理由の一つは、トランスジェンダーを見える化し、これから病院が当事者の患者の入院に適切に対応できるように、声を上げていかなくてはいけないと感じているからです。入院中の当事者は本心を伝えにくく、自認する性別で入院生活を送れなくても我慢してしまいがち。だから病院が希望を聞き、患者が望む性別での入院を受け入れる制度が必要です。

 

当時の自分に伝えたいこと

― 現在は周囲に男性として受け入れられ、看護師の仕事も当事者としての活動も充実した毎日を送っていますね。

怜 実は今年の11月に職場の先輩と結婚することになりました。パートナーの両親も、僕の事情を知ったうえで「でも怜君は怜君だから」と、人間として受け入れてくれたので、すごくありがたいと思います。最近は、ハワイでの結婚式や友人を招いて地元で開くパーティに向けて、準備をする毎日です。

中高生の頃は、まさか自分が結婚できるなんて思ってもいませんでした。

― 当時の自分に、現在の自分から言葉をかけるとしたら何と伝えたいですか?

怜 「ちゃんと前を向いて歩けば幸せが待っているから大丈夫だよ」って言いたいです。

― お話を聞いていて、怜さんが前を向いて歩き続けることができたのは、怜さんの両親、親戚、友人、先生方、みんなが怜さんを好意的に受け入れてくれたからで、その結果、現在の怜さんの幸せがあるように感じました。

怜 性同一性障害に理解がある人ばかりではないので、苦しいこともいろいろありましたが、周囲の支えがあったから、ここまでこられました。本当に感謝しています。

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【平成27年頃 再び前述の日記を見つけたことを受けて
※日記をクリックすると画像が大きく表示されます】

当事者やその周囲の方へ

― 性的マイノリティ当事者やその周囲の方にメッセージを。

母 『当事者への反応は確かに以前よりも理解あるものとなりました。テレビや新聞をチェックし、様々なLGBTX(その他)の方々の生き方や思いを拝見しています。皆同じ人間で、そこに生きづらさや偏見、差別があるのはおかしな話です。

人は千差万別、一人として同じ人間はいない。けれど人は人。皆同じ人間だから。思いやりのある世界を目指して行けたら…と思います。』

怜 性同一性障害にしても、他の障害にしても、すべてが個性だと思います。その個性をつぶさないで長所にするためには、人は一人では生きていけないと思うので、家族や友達と気持ちをわかちあえるような環境が大事だと思います。一人一人が輝いていける社会をつくるには、お互いがお互いを差別せず、助け合いが連鎖して尊重し合う関係でいることではないでしょうか。

 

 

身近にはいないと思っているあなたへ

ねっとわあく71号 永田さん画像

― 「自分の周りにはLGBT当事者はいない」と思っている人へ、伝えたいことはありますか?

怜 LGBTの人たちは悩みを隠しているので見えにくく、いないものにされてしまいがちです。だからといって、「知らない」とか「身近にいない」と言われるのはつらいです。そんなあなたの日頃の何気ない言動で深刻なダメージを受けて、当事者は自分の存在価値を見いだせなくなったり、生きる喜びを感じられなくなったり、居場所がなくなってしまいます。気付かないかもしれないけど、実は近くにいるんだと意識するだけで、日ごろの態度や発言は変わると思います。

当事者はこの人ならばと認めた相手にしか、本当の自分を見せません。当事者から悩みを相談された人は、信頼できる相手と認められたということです。

― ではいつの日か私が当事者から大切な秘密を打ち明けられることがあったら、あの保健室の先生や怜さんの両親のように、ただ受け止めて話しを聞きたいと思います。