ちょっとe情報

【EPOCAエッセイ】 尹 雄大「私たちの育んだ感性の向かう先」

2024年03月01日

あざれあでは、作家&インタビュアーの尹雄大さんを講師にお迎えし、「生きづらさを身体で解きほぐす」講座を2023年11月18日に開催しました。講座では、講話とグループワークを通して、参加者が抱える生きづらさを共有しました。「困難を生み出す社会構造やジェンダーについて気づきを得ることができた」「わだかまっていた思いが少し解きほぐれて楽になった」など、参加の皆様にご好評いただきました。

今回のエッセイは、講座のテーマであった「生きづらさ」にも関わる「人権・差別」をテーマに執筆していただきました。

 

ゆん

 

尹雄大(ゆん うんで)

プロフィール/神戸市生まれ。大学卒業後、テレビ制作会社勤務などを経て執筆業に携わる。人の身体性に基づいて数々の識者やアスリートらに取材を行ってきた。近年はインタビューセッションと題して、一般の方へのインタビューを行っている。主な著書として『体の知性を取り戻す』(講談社新書)、『異聞風土記』(晶文社)、『さよなら、男社会』(亜紀書房)、『聞くこと、話すこと』(大和書房)など。

 

 

『私たちの育んだ感性の向かう先』

 

この島に生まれ、そして長らく暮らしてきた。それだけ土地に根ざした考えや慣わしを身につけている。我が身を振り返りつつ思うのは、この地では「物事は自然とそうなる」と捉える感性が大いに発達していることだ。周囲を見渡せば、その証拠には事欠かないだろう。草木を刈っても島を覆う湿潤な土壌と空気が、瞬く間に自然に植物を繁らせてしまう。気づけば、自然とそうなっている。

「自然とそうなる」を順調の流れとすれば、作為は逆調になる。自然と「為る」あるいは「成る」文化においては、人が何か意図して行うことは、ときに賢(さか)しらな振る舞いとみなされる。

地震や災害が頻発するのは周知のことで、どうしようもなく「そうなる」のだから諦めて受け入れる以外にない。この動かしようのない事実としての自然環境が、「そうなる」ことを受容する感性の基礎をもたらしているだろう。そこに良いも悪いも問えないが、その感性がときに何を招くかと言えば、作為でこしらえたはずの「社会」でさえもあたかも自然のように感じさせることだ。

もちろん文化とは偏りなのだから、長短あって当然だ。島の育んだ感性の長所は、同調性や共感能力の高さに表れる。近年、注目されている非認知能力に通じるところでもあるはずだ。だが高さがあれば低さがあり、同調性や共感能力の短所の側面を顧みないままに幅を利かせると厄介なことになる。

たとえば「郷に入りては郷に従え」という慣用句がある。この句がもっぱら使われるのは、出る杭は打たれて然るべきを補強するにあたって持ち出されがちだと感じる。先例や因習への有無を言わせない同化であり、つまりは他者性の否定においてだ。

だが、この句を他者を排他的に扱うことを正当化する方向ではなく、尊重の文脈で捉えてもいいはずだ。郷という共同体を生きている先人、その他者性への尊重へのフォーカスとしてはあまり語られない。そうなってしまうのは、私たちの育んだ感性が、「違う」という事実それ自体が逆調だと感じてしまうところがあるからではないか。身なりが、考えが、振る舞いが異なるから同化を求めるとしたら、違いに対して、あまりにもナイーブだ。

この島では放っておくと物事が「そうなる」。そうなることへの同調性があたかも自然と働いてしまう。だからときに権力に従うことさえも自然と感じられてしまうし、権力関係という勾配を一方的に受け入れることに同調してしまう。そういう力が私たちの慣れ親しんだ感性には潜んでいるかもしれない。近年、そうした感性がもっとも端的に表れているのがSNSではないかと思う。

権力関係に対してあまりに不慣れだと思う言い回しがある。何か事件が起きたときに必ず耳にする「どっちもどっち」。それを言うことが公正さだと思っている節がある。そうして口をついて出た言葉が、どのような意図を含んでいるのかに頓着しないでいるのは、やはり「そうなる」ことを疑わない感性がもたらしているのではないか。

「どっちもどっち」となぜ自分はジャッジできる立場にいるのか。なぜそのような権力を自分は自然と手にできていると思えるのか。権力に無自覚なものは、自分の経験しなかった出来事と出くわした際に、起きた事実として見られない。異なる事実を尊重する体力がない。

尊重とは、私と同じ考えにあなたがなることによって生まれない。あなたを尊重するのは、あなたがみんなの意見に同調するからでもない。あなたがみんなと同じ考えを持つのであれば、あなたの特有さを私は知ることはできないからだ。

私たちはそれぞれが固有の存在というのは、事実としてそうだ。そうだからそうなのだ。異なる存在であるという事実に根ざしたとき、私たちは持ち前の感性を別のものとして、つまり互いの異なる存在を認めるということに向けることができるのではないか。